昭和42年03月25日 朝の御理解



 生き生きとした天地の働きを、天地の働きたらしめる、いわゆる、生き生きとした天地の働きを、生き生きと現していくということは、お徳を受けなければ頂けるものではありません。生きた天地に、私共は、生きた心をもって向かうならば、天地が生き生きとして働きかけて下さいます。それを私は、お徳だと思います。皆さん、せっかく、そのようなおかげの頂ける道を教えて頂くのでございますから。
 そのためには、お互いが、いわゆる、元気な心で信心せよと。日に日に更と、又は、生き生きとした心で信心をさせて頂かねばと。値打のある信心をさせて頂けと。同じお魚でも、鮮度の落ちた魚は、もう値打がない。野菜屋の店頭に、もう、しおれておるお野菜があっても、もうそれは、値打がないように、みずみずしい、生き生きとした信心をしなければ、おかげは受けられません。
 今朝の私は御理解をですね、耳のない氏子に聞かしても同じだと仰るです。例えば、聞いておっても心の耳をもって、この御理解を頂かなければ。だから今朝こうして朝の御理解を頂き合わせておられる方違は、この氏子達には聞かしてやろう、というほどの御神意があるんだと思うのです。そんならばその生き生きとした心というのは、どういう心かと。生き生きとした心と言うのは、よく嫌なことを言うたりする人。
 あの人には、あの人と会うのは嫌だと、又はまたあの人から皮肉を言われると。また変なこと言われると嫌だと思うてその。それを避けようとする心は、これは生き生きとした、元気な心ではありません。むしろあの人がどんなことを言うてもです。それをこちらの信心心で受けさして頂く。こちらからそれにこちらからそれにの臨んでいくような心を生き生きとした心と言うのです。
 あの人がどういうことを言おうが、どういうことをされようがそれを信心で、ぴしゃっとこう受けていくということをです。ひとつの楽しみのような気持ちでその場ならその場に臨んでいくことを、そういう信心を生々とした心というのです。たいがいな人がそこを避けようと致します。それは生々とした心ではありません。難儀に直面した時に、生々とした勇み心が出ないならばそれはもう生々とした信心ではありません。
 難儀に向かった時に、自分の心が、生々として、自分の心が勇み立つ。そういう心を、元気な心で信心せよとおっしゃる、生々とした心というのは、そういう心です。そういう、例えば、心でなからなければです、生きた天地には通いません。生きた天地の神様の働きというものをです、本当に現すということが信心であります。生きた天地の働きと言うものを、現すという事が、お徳であります。
 その生きた天地の働きをです、現す為には、私共が、生き生きとした心で信心をしなければなりません。生き生きとした信心とは、嫌なことという様なことから避けようとするような心は、生き生きとした心ではありません。又、あれが顔を見るのも嫌だとか、あれが又、皮肉なことを言うのが聞くのは嫌だからと言うのでなくてから。もう初めからです、どんなに皮肉なことを言われようが、どんな顔をされようがです。
 それをこちらが、生き生きとした信心心で受けようという気持ちになったらそれが、かえって楽しみになるんです。そういうような心を、生き生きとした心と言うのです。そういう心が天地を動かす心なんです。一般に言う難儀と。その難儀に直面した時にです。自分の心がです。生き生きとして自分の心から勇み心が出るような信心を、私は天地を生きた天地を生きた天地として、、生きた天地の親神様の働きをです。
 現わしていくということが信心だと。そういう信心がお徳を受けていく信心であるということなんです。嫌なことから逃れようとそういう心でです、例えばよし朝参りが出けたところで朝参りが出来ておるから、生き生きとした信心という事じゃないです。元気な心で信心せよと元気な心とは、天地を動かす心なんだ神様を動かす心なんだ。元気な心というのは朝参りどもさせて頂くということも元気な心でしょうけれども。
 その朝参りなら朝参り的信心によってです。どういう難儀な問題に直面しても自分の心から勇み心が出る。これはまぁだ私の信心が足りんからだと言った様な受け方。そういう信心からしか、天地を動かすような働きになってこないです。それを例えて申しますなら、私共日常の中に起きて来る、そういう問題はいくらもあります。嫌なこと嫌な人そげな人とは会おうごとない。そういう嫌な問題から逃れようと言う様なです。
 心ではなくて、そう言う様な人にでも、そう言う様な事柄にでもです。こちらから進んで、それを受けていこうとする心を元気な心というのです。いやむしろそこにですね、楽しみが湧いて来る様な信心。そうでしょうがこちらがそのことを覚悟して参りましたらです。例えばどの様な事を言われようがされようがです。それこそ神様はどの手をもって、今日は、鍛うて下さるだろうかと言ったような心なんです。
 はぁ神様今日はこの人をもって、この人をもって自分の心を試して下さるんだなぁ。おかげ下さるんだなぁ。神様はこの事柄を持って今日は信心の稽古をさせて下さるんだなぁと。もう始めから信心の稽古をその事によって、させて頂こうと言う心があればです。それが楽しみなんです。はぁ困ったということは要らんです。嫌な人だと思うことは要らんです。そこんところを私共が受けていく心を、生き生きとした心元気な心。
 元気な心で信心せよと。元気な心でなかならければ、天地には通じん。元気な心でなかならければ、天地の働きを働きとして現すことは出来ない。それを現し得る人を、私は、お徳を頂いておる人だというふうに思います。今日この御理解を頂かせて貰う時にですね。耳のない氏子に聞かせても同じとい意味のことを頂きました。言うならです、はぁほんにそうじゃある。
 今日は、いっちょ、その事で稽古させて貰おうと言うような信者に、氏子に、聞かせてなかったら、今日の御理解はもう、話さんでも良い。だから、必ずしも皆さんが、今日の御理解を頂き合わせたから、皆さんの信心が立派ということじゃないです。皆さんが、例えば、私の話を聞きよる。はぁ天地を動かすような信心とは。天地を動かすようなおかげとは。そういうような心であるならば、そういうような心に。
 本気でこっちから立ち向こうて一ついこうと。いわゆる私がいつも申します。成り行きを大事にというのは、どのような成り行きになりましても、それを元気な心で受けていこうとする。その姿勢そういう心がです、必ず天地を動かすような働きにもおかげにもなってくるのでございますから、どうぞ、ひとつ、生き生きとした、元気な心をもって、神様に立ち向かわなければならないと思うですね。
   どうぞ。